自分が可愛い人はどこにでもいる

誰もが多かれ少なかれ、自分を可愛いがるものである。余裕がない人が、自分を可愛がることを忘れていることもよくある。しかし物事の選択において、本当の意味で自分を犠牲にし、他人のためだけを考えている人は、そう多くはないと考えている。倫理や人類愛は、そういうものではないだろうという主張には異論はない。しかし今は、多くの人には影響を及ぼさず、数人の小さい範囲のみの影響に留まる、日常の行動選択の話をしている。

自分のために何かをしてもらう時に、素直に率直に、お願い事だけを述べる人がいる。また、直接には言わず、遠回しな表現を繰り返す人もいる。その誰もが、依頼を断られた時に、同じような反応を示す。不快感を露わにするのだ。そして、その時、自分が相手から何かをしてもらうことの正当性の議論を作り上げ、主張し始める。どうも、今日は一般論ではなく、特定の人たちの話に終始しそうだ。誰もがこういう人な訳では無いな。

思い出した。あの人達からすると、今の状況を招いたのは、私の存在かもしれない。でも私から見れば、家系の割に非常識に一代限りの上役を甘やかし続けて増長させた人と、それに甘え続けて増長した人の間に挟まれただけだ。

私はそもそも、増長させるつもりはなかった。でも、あの人は考えなしに増長させた。自分のためだけに点数稼ぎをしただけと言うだろう。でも近くにいて、その人と比較され、私まで使われた挙句、低い評価を受けることになった。上役の引退に伴い、今度は私に合わせてくれているようだが、人の行動規範の本質は変わるはずがない。

だから、あの人は私を利用しようとしているだけだし、元の上役もこれからもあの人に甘やかされようとしている。何も期待してはいけないし、期待することもできない。そう言う人だと言うことを、不意に思い出した。悪気なく自分を中心に世界との距離を測る。

そうそう、発端はあちらだった。自分だけのためにいろいろ考えて動くが、そのことの周囲への影響には全く興味がない人。こういう人はここそこにいる。ただし通常は目立たない。迷惑を被るのは一部の人のみで、さほど目立たないからだ。

自分が可愛い人は、他人があまり可愛くない。自分のために何かをしてくれる人を高く評価し、組織のために動く人は高く評価しない。そういう人たちの下ではあまり働きたくないな。

10連休にて思うこと

10連休は長すぎた。仕事が進まないから休むしかない。それは良いことなのだけど、遊びに行く先も普段と勝手が違う。ディズニーランドは連休の最初の2日間は空いていたそうだ。どのアトラクションも1時間以下の並びで入れたらしい。みんなで見込みが違ったのだろうか。今日も、いつもなら混む日曜の午後の大きな喫茶店が、7、8割程度の人の出だった。

今年は私にしては真面目に休んでみた。1日に一つから二つしか仕事をせず、連休前が締め切りのものも急いで取り組むことなく、過ごした。

例えば、家の荷物を少し片付けた。食卓の周りに展開しすぎていた物たちを、整頓したりまとめたりした。物は種類ごとに1箇所にまとめた方がいいとは、テレビで見た片付けのプロの意見だったか。同じものがどれほど沢山あるかは、確かにまとめれば誰でも気付く。まとめなくても気付くが、在庫管理は少なくとも情報は分散させず一元化した方が良いのと同じことだろう。

職場の荷物も少し片付けた。同様に事務用品や消耗品の在庫が散らばっていたので、一箇所にまとめた。白い箱は紙と文具と事務用品、黒い箱はその他の物品、と用途を分けた。使う物の品目数も減らした。仕入れの単位も見直して、必要な数のみを注文して在庫を持たないようにしようと決めた。

持ち歩く荷物を見直してみた。鞄の中に入っている物を整理したら、常に使う物と、特定の場所でよく使うがそこ以外には持ち歩かなくても良い物、そしてあまり使わない物、の3種類に分類された。私は一回の移動時間が1時間以下が殆どのため、携帯用の充電バッテリーは多くの場合に必要がない。水のボトルはあまり使っていない。この二つは鞄から取り出した。

時間の使い方を見直してみた。週に一日はリフレッシュのために使うことにした。散歩をしたり、本を読んだり、思索に耽ったり、走ったり、庭の世話をしたり、とにかく6日間の延長としての7日目でなく、6日間と6日間の間の特別な1日としての日曜日を過ごすようにする。人との関わりの中では時間に大切も無駄もないが、お喋りなど平日の無為な時間は、1日あたり30分以内に抑えたようとも思った。また朝の珈琲タイムは15分、午後のティータイムは30分。どちらもトマト1個分3(25分)としても良い。

長い休みは、斯様に自分を見直すのに役立つ。たまには在っても良いが、年に2つ程度で十分だ。

時間奪いと感情汚し

うちの職場に、時間奪いと感情汚しがいる。一昔前ならそう翻訳されていただろう、と思う。

時間奪いは、周囲の人間の時間を奪いに来る。あなたがやった方が早いから、あなたがやった方が上手だから。そう言って、自分の仕事を押し付けてくるのだ。御礼は言うが、本心ではない。時間を奪って申し訳ないとも言うが、それも本心ではない。この人はかつて、腰を低く頭を下げていれば世の中どうにでもなる、と豪語した人だから、計算づくの行動だ。

感情汚しは、もっと性質が悪い。疑心暗鬼になり、ありもしないことを並べ立て、自分が追い出されるとの被害妄想を抱く。そうして機嫌が悪くなると、周囲に負の感情を撒き散らして歩く。直接に妄想をぶつけるのではなく、別の口実を作って、周囲に当たり散らす。

これらが同一人物なので、とても困っている。手伝ってあげないと、遠回しに虐めを始めるのだ。どうやったら、こういう人と距離をおけるか、見当もつかない。そういう日々を数年前まで過ごしていた。

時間奪いと感情汚しは、女性好きでもあって、よほどのことがない限り、男性は雇わない。そして雇った女性には、プライベートな時間まで供出させる。長時間拘束し、自分の言うことだけ聞くように少しずつ仕向けていく。自分が帰った後にも残業するのが当たり前だと思わせる。帰った後の仕事が、自分が来る翌朝には完成していることも当たり前だと思わせる。朝には出勤したら挨拶とお茶を淹れに来いと言い、夜には家族の就寝後に再び出勤するようにと言う。それ以外にもいろいろあるが、それはまた別の話。

まあ、そういう人がいた、ということを記しておこうと思った。

週に一度の休み

やはり週に一度は職場から離れるべきだ。私の人生は職場のみと共にある訳ではない。自宅にも人生がある。自宅は寝に帰るだけの場所ではなく、家族と時を共有する場所だ。

家族と過ごす時間は大事だ。職場の人々とは、あと何年一緒に過ごせるかなど、気にしたことがない。でも家族とは、それをとても気にする。このこと一つを以って、いずれが大事かは一目瞭然だろう。

一旦、家族が大事と気付くと、次に自分も含めて、人がどのような幸せを追求し、何に幸せを感じるか、に興味が湧く。自分の幸せは、他人の前で主張する必要はなく、ただ家族の前で幸せであればいい。幸せでない人ほど、人前で幸せを語るものである。それでも、身近な同僚たちが何に幸せを感じているかには興味が湧く。一昨年から同居している猫は一体何に幸せを感じているのだろうか。猫にも休みをあげたいものだが、必要だろうかと想いを馳せる。

そんな休みを今日は過ごしている。

ユニディ

ユニディというホームセンターがある。結構大きくて、とても便利なホームセンター。昔、ドイトと言うホームセンターの近くに住んでいたが、あれぐらい便利だ。そこにアイリスオーヤマの製品が多く並んでいる。普通に並んでいるのではなく、入り口付近にトピックを決めてキャンペーンを張っている印象だ。

もしかしたら、と気になって初めて検索したら、アイリスオーヤマがユニディの親会社になっていた。なるほど、と思った。

猫の食事

食べる量が増えたり減ったり。

シーバはお気に入り。お医者さんで買ったものは好きではないらしい。しばらく、食べる量が減っていたのが、ハートを混ぜたら食べる量が増えた。

休むことを思い出す

これまでずっと、週に7日間は職場に出向くことを習慣としてきた。必ず職場に行くことで、必ず何かはできる。しかし、リズムや新鮮味に欠ける毎日を過ごすことになる。朝起きれば、とりあえず職場に向かい、職場に着いたらとりあえず何かをする。緊急の対応が必要なくとも、週末にも職場に出向く。締め切りが近くなると頑張るが、締め切りが遠いとだらだらと過ごしてしまう。これを何年も繰り返すと、スピード感の乏しい毎日を過ごすことになるだけでなく、心の躍動感も失われていく。できるがやらない、という日々も続く。

このままではトータルでは、面白味に欠ける人生を送ることになりそうだ。そう思って、毎朝は猫の相手と世話から始めてみた。週に1日は職場から離れてみた。土曜と日曜は、家庭のことから始めることにした。日曜は家族の買い物に付き合うようにした。日曜は喫緊の用事がない限り、職場には出向かないことにした。同僚が平日は忙しいので、週末に付き合ってあげられる時は合わせることにした。

職場に毎日いる人が居たために、行くのが当たり前と洗脳されていたかもしれない。こんな私でも、昔は週に1日は休んでいたのを思い出した。そうだ、休まなきゃ。休めない人間は、面白味に欠ける。仕事人間と言うのは、休まずになるものではない。休んでも真面目さと誠実さを失わない能力を養うべきである。そう思い出した。

やはり週に1日は職場から離れよう。

iPad Air 3とSmart Keyboardの組み合わせは素敵かも

iPad Air 3にキーボードをつけた。

どんなノートパソコンも、この大きさと軽さと薄さには敵わない。絵を描けないので、iPad Proは憧れたままでいい。Apple Pencilも第1世代でいい。

CPUパワーを要する目的を除いて、ノートパソコンを持ち歩く必要がなくなった。コードをローカルに動かす用途では引き続き持ち歩くことになるが、リモートで動かして良ければ、iPad Air 3をコンソールにしてサーバに接続すればいい。USBメモリというデータ搬送手段もそろそろレガシーになりつつあるので、これで良いのかもしれない。

そしてMacBook AirもMacBook Proも持ち歩かなくなったので、定位置を決めることができた。日常の移動の際の荷物も軽くなった。古いMacBookも処分できる。

タブレットを一台買っただけで、色々な物の用途と役割の整理ができた。これはとても素敵なことだ。

東京電力エナジーパートナー

家に電話が来た。何かの立入検査をしたいと、家庭訪問のアポを取りたがった。業務に安全点検は含まれていなさそうな会社だ。家に立ち入るほどの検査が必要なら、紙面で連絡してほしいと思う。