義理や恩というもの

義理は果たすもの。それはそう。私も義理は大事にしてる。恩も大事で、返すべきだとも思う。

でも、義理を果たす資格を自ら喪失する人もいる、と私は思う。例えばこちらに不義理をした人。例えば尊重するに値しないことをして、しかも隠蔽した気でいる人。こういう人たちから、義理を果たせと要求されると、強い戸惑いを覚える。それでも果たせと思う内容と、こちらが既に最大限の譲歩をして、やってあげていることの内容が大きく乖離する。

恩を返して欲しがる人も同様だ。恩を売った気になっている人がいるが、売られた方はリアルタイムに返していることが少なくない。一定期間ずっと、受けた恩以上の奴隷奉公をしたから、もう解放して欲しいと思う人もいる。一つの大きな恩を、一生返せと言われるととても困る。恩は返すものだが、幾ら返しても返し足りないと考える人には、どう接すればいいだろうか。説明や説得は通用しない。説教は面倒くさい。最近はそういう人は減ってきたように思うが、未だに居なくなるわけではない。何処かその辺りを歩いているかもしれない。

誰かは尊重して何も頼まない。誰かはこれまで通り手足のように使う。こちらが忙しいと言えば、義理を果たせとか、恩を返せとか、昔のことを持ち出して繰り返し言う。こんな義理の果たさせ方は、たぶん今の時代には通用しない。

義理や恩は心が通じ合った人間関係の中で尊重していくもの、と思うに至る。恩があるから仕方ない、義理があるから仕方ない、と思わせる果たさせ方や返させ方は、押し付ける方にも問題があると言って良いだろうか。