メディアの消費者という役割から降りかけているかもしれない

以前は小説を読み漁っていた。推理、ハードボイルド、青春、恋愛、サイエンスフィクション、ファンタジーなど、現実に近いジャンルから、まったく現実から遠いジャンルまで、特に拘りなく読んでいた。私が読みにくいのはエッセー、私小説、純文学、歴史、伝記、そして詩。ある歳までは翻訳物も読めたが、最近は読みにくくなった。ともかく大量に読んでいた。

それがこのところ、めっきり購入スピードが落ちた。買うけど読まないから、買わないに移ってきた。テレビもスポーツ中継、バラエティ番組、ドラマの順に徐々に見なくなり、アニメもあまり見なくなってきた。映画はたまに観る。

こうなると自分が活字メディアと映像メディアの消費者という役割から降りかけているように思えてくる。間近で見ると様々な多様性を持っているように見えていたものが、少し引いて眺めると似たような特徴を共有しているように見えてくる。類型化の粒度が粗くなってきているとも言える。興味のあるものには細かい分類を作り、興味がないものには粗い分類で片付けるのは、人間の性だろうか。

流行に触れたり、新しいものを探したりするメディアがなくなった訳ではないので、自分の新鮮な感覚は忘れないようにしたい。興味は移ろいやすくて構わないと思っている。しかし以前に興味があり、今は失ったものをいつまで保存しておくか、という新たな問題にも直面している。